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伝説と冒険時代の始まり

スタート地点は青少年旅行村、現在のコースとは逆回り。

耐久のハーフの部に分けられた第1回大会の参加者は469 名(耐久の部)+266名(ハーフの部)、大会関係者160名が集結し、その日の五日市の町はいつになくにぎやかだった。

 

そのスタートラインには登山家として名を馳せていた小西浩文、大宮求らも並び、テレビカメラも30台以上入るほど注目を集めた。

伝説と冒険時代の始まり

 

大会直前の10月8日には台風の大雨の中、100名を越えるスタッフがコースセットのため入山。

作業は深夜まで続いたにも関わらず、翌早朝には濡れた衣服も乾かないまま競技、救助のスタッフは所定の山に入り、運営部も徹夜に近い準備を済ませて開会に備えた。

 

大会当時の10月9日は、前日までの天気がウソのような雲ひとつない晴天。

約4ヵ月にわたって行われてきた激動の準備期間を経て、記念すべき第1回大会を迎えた。

スタートの号砲は、その後20 年も続く「ハセツネ」という伝説の扉が開かれた瞬間だった。

トップの選手から24時間かけて完歩する選手まで
参加者すべてに「挑戦するドラマ」がある

第1回優勝者 田中正人

93年の第1回大会以前、ハセツネみたいに縦走する山岳マラソンないところから声がかかったんです。

それまでアドベンチャーレースというものを僕は知らなかったんですが、タレントの間寛平さんが世界のアドベンチャーレースに挑戦するためのチームを結成中で、ちょうどそういうタイミングの時に僕が優勝した記事が出て、チームの方から声をかけてもらえたんです。

それからアドベンチャーレースの世界の大会に出ていって刺激を受けて、次の年には会はありませんでした。

ピークハント、要するに山頂まで行くっていう登山競走がほとんどだったんです。

そんな時代にハセツネが開催されたということ自体が、すごく画期的なことだったんですね。

しかも70?以上の長距離で、夜も走る。

あり得ないことでした。

常識を覆すような時代を先取りした大会だったんですよ。

大会要綱が発表された時、関心のある人は驚いていましたね。

僕はオリエンテーリングという競技をやっていて、仲間たちと毎週末、奥多摩を走っていて庭みたいな場所でしたが、第1回大会はとんでもないコースと参加者からは認識されていました。

ただ70 ?への挑戦は初めてだったので、僕自身にとっても未知なる楽しみは充分にありました。

 

優勝した第1回大会は、僕にとって人生の転機になりました。

それまでは会社員をしながらオリエンテーリングをやっていて、その練習で週末に山を走るっていう生活を送っていたんです。

で、第1回大会でたまたま優勝させてもらって、大会の後援についていたスポニチ紙の記事で表に出た時に、思いもよらないところから声がかかったんです。

それまでアドベンチャーレースというものを僕は知らなかったんですが、タレントの間寛平さんが世界のアドベンチャーレースに挑戦するためのチームを結成中で、ちょうどそういうタイミングの時に僕が優勝した記事が出て、チームの方から声をかけてもらえたんです。

それからアドベンチャーレースの世界の大会に出ていって刺激を受けて、次の年には会社を辞めてプロのアドベンチャーレーサーとして自立して今に至るわけですが、そもそもハセツネに出ていなかったら今の自分は考えられません。

僕の人生を180度変えた大会なんです。

 

そこまでいかなくても、非日常的なチャレンジと体験ができて、すごく感動のあるドラマを与えてくれるので、参加した誰にとっても人生において影響力のある大会になると思います。

トップの選手から24 時間かけて完走ギリギリで歩き通す選手すべてにおいて、挑戦するドラマがあるんです。

トップは7時間半でゴールする戦いをしていて、それはそれで過酷な戦いです。

3倍近い24時間をかけて歩き通す人にも各々のドラマが必ずあって、達成感や喜びっていうのはトップの選手から末端の選手まで全員が平等に味わえる。

どんなレベルの人にも挑戦のしがいがあり、どんな人にも必ずドラマが生じて、それを楽しめる。

そこがハセツネの魅力でしょう。

伝説と冒険時代の始まり

伝説と冒険時代の始まり

練習の虫になる

第2・4回優勝者 田中友道

伝説と冒険時代の始まり

ハセツネ草創期の第2回、第4回大会の頂点に立った田中友道。

タイムも第8回大会まで、8時間台でのフィニッシュは彼ひとりだけという、当時の驚速ランナーだった。

第4回大会終了後の報告書に、その速さの秘密が記されていた。

「今回のハセツネ出場にあたり、次のようなトレーニングをしてレースを迎えました。

9月の1ヶ月間の主なトレーニングは、8日山岳20?走、15日20?ロードレース出場、19日山岳20?走、23日山岳30?走、29日山岳35?走、他の日はジョギングで10.20?のロードを走り、月間走行距離は530?になりました」。

 

飛び抜けたタイムを記録して優勝した裏側には、それを可能にするだけの努力と自信の積み重ねがあったのだ。

それでも田中は「ハセツネは山岳がメインフィールドで、距離も71.5?と非常に長いので、距離に対しての不安が残る」と書いていた。

レース当日は、第3回大会を9時間3分で制した佐々木との一騎打ち。

序盤は田中も思ったように調子が上がらず苦しかったようだ。

 

「レース当日の天候は曇りで雨になるという予報の中、午後3時にスタートしました。

スタートして間もなく、佐々木(昭夫)さんとトップを並走していました。

伝説と冒険時代の始まり

1時間ぐらいの並走後、佐々木さんがトップに立ち、徐々に差が開いていきましたが、先はまだ長いので無理はせず、勝負は三頭山をすぎてからと自分に言い聞かせ、マイペースで走りました。

途中から雨が降り出し、足場が滑りやすくなり、夜間ということも重なって走るには悪条件になってきました。

第1関門の浅間峠をすぎたあたりから疲労のため登りがとても苦しくなってきて、三頭山の登りでは苦しさがピークに達して歩きになってしまいました。

しかし、三頭山の頂上をすぎたあたりから不思議と元気が出てきて、トップを追う気力も出てきました。

第2関門の月夜見駐車場に着くと、トップの佐々木さんが給水を終えて走り出すところでしたので、私も急いで給水をして後を追いかけました。

伝説と冒険時代の始まり

雨のため足場が悪いので何度も転びながら御前山の登りにかかるところでトップに追いつき、追い越すことができました。

トップになってからは調子も上がり、ゴールまで快調に走ることができ、優勝することができました」

 

その後、優勝者の顔ぶれは野崎光宏(第5回)、迫慎一(第6回)、大内直樹(第7回)、杉山眞之(第8.9回)と大会ごとに変わっていったが、第9回大会まで田中が第2回大会で記録した8時間29分08秒というタイムが破られることはなかった。

それほど飛び抜けた記録だったのだ。

田中のトレーニング方法や競技志向の強い参戦スタイルは、今の時代にも受け継がれている。

 

伝説と冒険時代の始まり

01 Prologue 宮地由文 日本山岳耐久レース長谷川恒男CUP実行委員 夜明け前のハセツネ

02 PLAY BACK 1993>2001 第1回〜9回 大会記録 伝説と冒険時代の始まり

03 PLAY BACK 2002>2011 第10回〜19回 大会記録 競技の高速化と新時代の到来

04 Rpilogue 長谷川昌美 日本山岳耐久レース長谷川恒男CUP実行委員 生き抜くことは冒険だ


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