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競技の高速化と新時代の到来

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競技の高速化と新時代の到来

トレイルランというより、初期のハセツネにはまだ登山マラソンという表現が正しいのかもしれない。

だが、第10 回大会あたりから大きな荷物を背負う参加者も減り、登りながら補給するランナーも増え、ハセツネを「競技」としてとらえ挑戦する人が増えてきた。

参加者の増加とともに、タイムもどんどん短縮されていき、8時間後半から8時間前半が当たり前、さらには7時間台へ突入と、ハセツネが高速レースへと進化していった。

石川弘樹、鏑木毅らの登場もあり、第12 回大会あたりからはトレイルランという言葉が広まり始め、ランナーたちの装備にも変化が見られた。

ハイドレーションや補給ジェルを使用する人も出始め、競技志向の強まるトップランナーたちは、今に近いトレイルランナーの姿へ。

また先の石川、鏑木らが世界で活躍したことから、トレイルランナーの間ではハセツネは世界を目指す登竜門的な位置づけとなる。

近年は陸上競技界からのトレイルラン参入も多く、今後さらにスピード化は進むだろう。

競技の高速化と新時代の到来

ハセツネという大会を通して 僕は伝えたいことを発信してきた

第10・11回優勝者 石川弘樹

競技の高速化と新時代の到来

当時僕はアドベンチャーレースの活動をメインにしていて、その中のアクティビティのひとつとして山を走っていました。

初めてハセツネに出たのは98年、第6回大会ですね。

ランニング仲間から教えてもらい、おもしろそうだな、と。

その時はコンタクトレンズを落としてしまい第2関門でリタイアしましたが、99年はラスト5kmまで1位で走っていたのですが、ライトの電球が切れてしまい、その先で抜かれましたがなんとか2位で完走することができました。

その後もアドベンチャーレースを中心に活動していましたが、得意で大好きだったトレイルランニングを自分の中で突き詰めてやりたいなと思い、01年からいろんな国のいろんな場所を走るために海外へ飛び出して行ったんです。

北米を中心にレースに出て帰国する中で、久しぶりにハセツネにも再会しました。

02年の第10回大会、そこで優勝することができましたが、最初から僕は先頭を競り勝って勝つことを目標にレースには参戦していませんでした。

僕のレースの捉え方は、とにかく自分のペースで走り続けてベストを尽くすというスタイル。

あの時も自分のペースで走っている中で、最後の最後に沁さんを抜いて勝ったという感じなんですよ。

 

当時はまだトレイルランニングって言葉もほとんど使われていなくて、登山用の大型のバックパックを背負い、山靴を履き、コッヘルをカランカランってぶら下げながらレースに参加している人もいました。

連覇した03年の第11回大会もそうですけど、ピリピリした緊張感はありませんでした。

上位を狙うランナーたちとスタートラインで会っても笑顔で話をしたりとか。

もちろん、お互いを探っている部分もあるんでしょうけど、バチバチしたものはなかった。

その頃にハセツネを知って徐々に入ってきた人たちもすべて、勝ち負けよりももっとこの山を走る、夜通し進み続けることを楽しんで参加していたような気がします。

その中にいる時間がすごく僕は好きで、楽しみながら02〜03年勝たせてもらった感じですね。

3年後の06 年にもじつは参加しているんですけど、その時は参加者の目の色が違って、ピリピリしていましたね。

それが会場全体に漂っていて、ハセツネが本格的な走る競技に移行したんだなって実感しましたね。

 

そういうのも思い出としては大切なのですが、02〜03 年の優勝を含めて、僕にとってはハセツネを通してトレイルランニングの魅力やスタイルを日本の選手に発信することができたことが大きかったです。

海外のレースを先に経験した後、初めてハセツネに出てみた時の感想は「何か雰囲気が違うな」ってことでした。

僕自身は競技としではなくて、アウトドアスポーツとして山を走るスポーツを知り、トレイルランニングというひとつの遊ぶアクティビティとしてこの世界へ入って行ったので、当時の日本の山岳マラソンや山岳耐久レースというスタイルや雰囲気に疑問を持っていましたね。

ロードランニング用のシューズやウェアではなくて、僕は最初からトレイルランニング専用のシューズとアウトドアウェア・ギアを使うことにこだわりました。

当時、日本のスタイルはストイックなランニングの延長で、格好が悪かったし(笑)、雰囲気も超真面目だった。

だから普及するに当たって、このスポーツを楽しむためにも「ストイックにやらなくていいし、走るスタイルも雰囲気も楽しもう」ってことを伝え続けていました。

つらいところは歩いて、走りたいところを走ればいい。

それって山歩きとは違うし、トレイルランニングっていう遊ぶアクティビティなんだよって。

あと自然の中がフィールドだから機能的にも絶対にアウトドアウェアが必要だし、スタイル的にもかっこよくて、かわいい。

そういう部分も楽しもうって。

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03年は同じチームでやっていたスコット・ジュレク、ブランドン・シブロウスキーと女性のクリッシー・モヘルというアメリカのトレイルランニング界を牽引していた3人を日本に呼べるようメーカーにお願いして招待してもらいました。

今思えば少し早すぎる行動でしたが、当時は雑誌や情報源も少なく、海外のトップ選手が来てくれたことでトレイルランニングのスタイルを少しは伝えることができたのかなとは思っています。

こうしたあらゆるトレイルランニングとしての山を走るスポーツを国内に普及させる活動や情報を発信する上で大切にしていたことのひとつが、自分のパフォーマンスの速さや強さでした。

人が人にものを申すのに、ゆっくり、チャラチャラ走っていて、走り方はこうだとか、こうやって楽しもうとか、これってかっこいいよと言っても影響をあたえられるはずがない。

やはり勝つことはとても大切なことだと考えました。

自分があらゆる発信をしていく行く上で、ハセツネの記録が大きな意味を持ったのは事実です。

 

競技の高速化と新時代の到来

競技志向は強まりましたが、ハセツネにはまた挑戦したいという気持ちもあります。

ここまで強い、速いランナーが一度に集まる大会は今のところ他に日本ではないですし、僕が優勝した頃と比べると優勝タイムは1時間近く短縮されています。

僕もいちアスリートですから、そのタイムに向けてチャレンジしたいなっていう気持ちもあります。

優勝した当時のレースを振り返ると、僕は登りを一切走らずに歩いて、下りをとにかく飛ばす走り方をしていた。

今は陸上競技、ロードマラソンの速いランナーのような走るためのエンジンが並外れた人々もこの世界に入ってきています。

そこへ戦いを挑むのであれば基本的なスピードを上げつつ、登りをより速く走らなければ勝負はできないと思っています。

今でも僕自身の中では走りたいと思うレースでもありますし、自分の限界に挑めるレースのひとつであります。

本当につらい最後は 自分自身との戦い

第12回優勝者 横山峰弘

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日本山岳耐久レースで優勝することは、今年のひとつの目標でした。

今回、優勝候補の石川(弘樹)選手、鏑木(毅)選手がケガのため参加しませんでしたが、優勝経験者、力のある選手がスタートラインにそろっていました。

その中で勝てたことを誇りに思います。

 

レース当日、2時間ほど苦しい時間が続きましたが、第1関門手前から体が軽くなってきました。

三頭山の頂上まではヘッドライトを使用せず明るいうちに登り、下りからライトを使用。

雨で下りはどこも滑ります。

先が長いのでケガをしないように集中し気が抜けませんでした。

第2関門の手前で韓国の選手を抜くと、御前山登りまで後ろにつかれます。

大ダワをすぎて阿部(真也)選手が追いつき、3人で進みます。

大岳山の登りで少し差がつき、頂上でスピードを上げてその勢いで下りに突入。

少しでも差を広げたいと思い、前に思いっきり足を交互に放り投げるように下りました。

昨年はゴール1.5km手前で抜かれたことが頭にあり、最後まで気が抜けませんでした。

昨年と同じミスをしないため、今年は下りも練習してきました。

日の出山からの下りでは3回も転倒しました。

ただ全力で、最後のロードも走りました。

 

ゴールしてから子供を抱いて、ようやくホッとできました。

私は今は山岳耐久レースを競技としてとらえ、競技そのものを楽しんでいます。

他人と競っているようで、最後の最後、本当につらいところは自分自身との戦い。

今年は弱い自分をプッシュでき、優勝することができました。

 

競技の高速化と新時代の到来

自分にとっては世界挑戦の資格であり、国内のピリオド

第13回優勝者 鏑木毅

競技の高速化と新時代の到来

自分の国内のレースでの最大のターゲットでした。

05.08年、4回参加しましたが、ハセツネって聞くと心が躍ります。

一度は勝ちたいって気持ちがあったし、ハセツネで勝てたという土台があったから世界にも挑戦できたと僕は思っています。

 

05 年に初めて出たんですけど、その年は自分の体が絶好調で三大耐久と言われていた北丹沢12時間山岳耐久レース、富士登山競争で勝ち、残るハセツネで3冠を制覇したいなって気持ちがあったんですね。

あのレースは今でもよく覚えていて、最初から最後まで雨が降り続けて路面が悪かった。

04 年に優勝して2連覇を目指していた横山(峰弘)さんに大岳山で追いつき、やっぱりこのシチュエーションになったかと思いましたね。

横山さんとはもともとよく知っている間柄で、真っ暗闇な中で「横山さん、鏑木です」みたいな挨拶をしました。

トレランレースでは、追いついた方が気持ち的にもアドバンテージがある。

だから横山さんもそこで諦めたかなって思っていたんですが、ぜんぜん違って大岳山のガレた下りで一気にスパートをかけられ、大きく離されました。

第3関門手前で追いついて、お返しとばかりに今度は僕がスパートしたけど、ぜんぜん離れない。

金比羅尾根の下りはデッドヒートでした。

僕が先行したんですけど、すぐ後ろにライトが迫って振り切れなかった。

ゴールは1分差……いまだに忘れられない初優勝ですね。

横山さんに勝ったというのもあったけど、自分に勝ったという気持ちが強かった。

ハセツネの舞台だからこそ、あそこまで追い込めたし、最後まで諦めなかった。

それが何より自信になり、自分のキャリアの中でも大きな意味を持っていますね。

 

06年は沁(在徳)さんに1分差で負けた。

でも、あのレースも満足はしていて、途中の三頭山で20分差ぐらいつけられたんですけど、15分、10分、5分と詰めていけた。

普通、20 分差って言われたら諦めますよね。

自分も諦めかけたけど、これだけ一生懸命に練習してきたんだから持てる力を全部出してみて、勝つことはできないかもしれないけど、どこまで詰めることができるか挑戦してみようっていう新しい目標を見つけて。

惰性で走ってしまうっていうのは嫌なんですよ。

この20分の差をどこまで詰めるかっていうワクワクした気持ちで走ることが大事だと思うんです。

確かではないんですけど、最後一瞬だけ沁さんが見えました。

でも、沁さんも勝負がかかっているからか、最後にライトを消したんじゃないかな。

さっきまで見えてたのに、急にライトが見えなくなった。

ロードに出てからも全力で、ゴールした時はぶっ倒れて、沁さんとの差は1分。

2位になったけど、負けたっていう気はしなくて、やるべきことはやった、すべて出し尽くしました。

最後まで諦めないという気持ちを持ち続けて走り切れ、05 年の優勝とは違う意味での自信になりました。

それは後々のレースで生きてきています。

07年は途中棄権。

1ヶ月前にUTMBに初参加して、直前まで出るか迷っていましたが、走り始めて体が動かず第1関門でリタイアしました。

そんな状態でも、やっぱりあの興奮の中に飛び込みたい、挑戦したかったんでしょうね。

 

08 年は最後のハセツネ参戦になりました。

07年にUTMB参戦で世界の舞台に立ち、自分の戦う場は国内ではなく世界なんだっていう気持ちが芽生え、また08年にUTMBで4位になったこともあり、国内レースから卒業しようと決めたんです。

だけど、07年にリタイアという終わり方をしたので、ハセツネはきちっと完走して締めくくりたいなって。

その年もUTMBの疲れがあり、体が重くて動かず途中で何度も辞めようかなって思いました。

後ろからスタートして、決して楽ではないけど我慢していたらどんどん順位が上がって行った。

で、最後の4〜5kmのところで横山さんに会ったんですよね。

05 年以来ライバルであり、親友でもある彼に。

その時は重いケガから復活して、彼もよく頑張っているなっていうねぎらいの気持ちだったり、自分自身もこれが国内最後のレースだという気持ちもあって、勝負のことを忘れてゴールまで一緒に走った。

今までのことを話ながら、金比羅山から五日市の夜景を見て「きれいですね」って。

05年はギラギラしてふたりで死闘を繰り広げたその金比羅尾根を3年後のその時にはふたり並んで話をしながら走っていたのはレースをしているような感覚ではなく、何か今までとは違う時間が流れているようでした。

トレラン第1章の終わりで、第2章はUTMB参戦を足がかりにプロに転向して世界に飛び出す。

そのピリオドになったのがハセツネだったんです。

他のレースではピリオドにはならなかったと思いますね。

 

ハセツネは厳しい中どれだけ自分が戦えるのかを試せる場です。

コース変更がほとんどないので、昨年の自分より、5年前の自分よりどれだけ向上できたかを知ることができるレース。

挑戦しがいのあるレースだと思うし、あれを乗り越えることができたっていう大きな財産を得られ、その後の生き方にも影響する。

僕自身、一番それを感じています。

 

競技の高速化と新時代の到来

数字で振り返るハセツネ全大会

第2回大会から飛躍的に参加者が増え、完走率も97年の第5回大会あたりからは70%前後をずっとキープ。

競技が高速化し始めたのは03年あたりから。

ハセツネで10 時間切りを果たすランナーを指す“サブ10”の達成者が二桁になり、04 年こそ台風でトレイルが荒れていた影響で優勝タイムが落ちるも、06 年初の8時間切りまでタイムは毎年短縮されていった。

07 年は優勝タイムが8時間台ながら、10 時間切りのランナーの数は05.06年の約2倍にふくれあがり、46人を数えた。

翌年からは60人以上が10時間切りを果たすのが当たり前になり、今後この数字はさらに増えていくことが予想される。

女性陣に目を移すと、初めて10 時間切りを果たしのは02年。

その後も女性陣は10時間切りを果たしているが、男子ほどの増加はなく、いまだにサブ10 は女性陣にとって高き壁だ。

完走率においては08年以降は80%前後を記録する大会も出てきて、日本のトレイルランのレベル自体が上がっていることがここに証明されている。

ニューヒーローたちの登場

世界に飛び出した行った石川弘樹、鏑木毅、そして横山峰弘。

その背中を追うように、若手有力ランナーたちもハセツネに挑み、その名を刻んできた。

その筆頭が第15回大会で初優勝を挙げた相馬剛。

彼は昨年の第19回大会でも2勝目を挙げ、後藤豊の持つ最速タイムに最も届きそうな有力者のひとりだ。

第16 回大会に勝った山本健一もハセツネだけでなく他のレースで戦績を築き上げ、男子では初めて7時間30分台に突入した。

相馬と名バトルをしてきた奥宮俊祐、第18回大会で総合3位に入った山田琢也をはじめ、望月将悟や菊嶋啓らもハセツネという大会の中で成長し、参加ごとに順位を上げてきている。

いずれも今後のトレイルランニング界を牽引するランナーたちである。

体と心のコンディション、
すべてがそろわないと見えてこない最速タイム

第17回優勝者&最速タイム記録者 後藤豊

競技の高速化と新時代の到来

初参加した17回大会では、初優勝してコースレコードも出すことができました。

当時は長距離に踏み入れていなくて、ウルトラマラソンにも出たことがなかったので、まずは完走を目指すことを前提にトレーニングを開始しました。

ところが、参戦前に40kmのレースに出て“疲れない走り方”をそこで習得できて、これは使えるのかもと練習していったら想像以上に手ごたえを得られたんです。

関門ごとに区切って試走したところ、ゆっくり走っているのに過去のデータと比較すると誰よりもタイムが早かった。

もしかしたらっていう気持ちが自信になり、それが徐々に強くなっていって、スタート地点に立った時には誰にも負ける気がしなかった。

周りの人からしたら初参戦なのに何を言っているんだって感じだったんでしょうけど、それだけうまく練習できていて、その時は自分の体の状態が手にとるように分かっていたんですよね。

 

最初は10番以内をキープして、周りの出方を見ていました。

第1関門までにトップに立ちましたが、ペースアップしても沁(在徳)さんを振り切れなかったし、そのスピードではゴールにたどり着けないなと判断して、沁さんに先行させました。

第1関門は3番手通過で、三頭山手前で一度抜かれた尾崎(友和)さんを抜き返すことができたのですが、そこで捻挫。

沁さんとの差は6分と教えられ、さすがにこれはダメだなって思いました。

まだ走れるからとりあえず走ろうって感じで月夜見の駐車場まで行くと、そこで沁さんとバッタリ。

そこで気持ちのスイッチが再び入りました。

第2.第3関門の間の急な登りで沁さんを抜き、一気に振り切った感じですね。

 

捻挫がなければもう少し早かったかもしれないけど、7時間20〜30分でゴールしたいなって自分の中で設定していたので、タイムはほぼ予想どおりでした。

2.3年経ったら抜かれるのがハセツネの歴史では常ですが、まだ抜かれていないことを思えば悪くないタイムだったのかなって思います。

ただ、あの時は7時間30 分を切れる感触もあったし、いずれ自分のタイムを抜きたいという気持ちもあり、あれが限界だったとは決して思っていません。

 

今思えば17回目は満足いく練習ができていました。

18 . 19 回目は走りのリズムが悪く、練習も不十分。

19 回目は第1関門までに激しい頭痛があってリタイアも経験しました。

すべてがそろわないと届かない……。

自分の体を完全にコントロールできなければ、7時間30分というタイムは狙えないんだなって改めて思いましたね。

 

競技の高速化と新時代の到来

女性ランナーたちの戦いとふたりの「女王」

競技の高速化と新時代の到来

第1回大会から、女性ランナーたちもハセツネで磨かれ、歴史に残る戦いを繰り広げてきた。

その中でも間瀬ちがやと桜井教美は、ハセツネの女王として名を刻むことになった。

99 年の第7回大会で初優勝を果たした間瀬は、そこから3連覇。

その間瀬に桜井が初めて挑んだのは01年の第9回大会のことだった。

初対決は間瀬が勝った。

だが、桜井は初参戦2位の悔しさから、翌02〜03年を連覇。

参戦しなかった04年、07年こそ間瀬が優勝を果たすも、桜井はその後は参戦した大会すべてで女子最速タイムを縮めてきた。

また間瀬、桜井、ともにハセツネでは5勝を挙げる中、鈴木博子(右写真右)、さらに星野緑、野村泰子、大石由美子、小林知美など、女子の「新星」も登場してきた。

下のグラフは男子トップタイム(青)と女子トップタイム(赤)の変遷。

タイム10分短縮の難しさ
予想外のことが起こったら もうそこで、アウト

第1回優勝者 田中正人

競技の高速化と新時代の到来

ハセツネに初めて出たのは01年、第9回大会です。

トレイルでの長距離が初めてで、最初は食べながら走るのに戸惑っていました。

以前出ていた国体だと1時間半とかで終わってしまうし、同年に経験していたロードの100kmレースでもそんなに食べなかったので、ハセツネ初参加の時もあまり食べずに走っていたら後半バテバテで。

大岳山の手前で道を間違えて第3関門にたどり着いたら(間瀬)ちがやさんに追い抜かれて、第3関門から先がものすごく長かった。

女子2位だった初挑戦は悔しい思い出ですね。

 

過去に6回出たうち5回優勝できて、どの大会でもタイムを縮めることができました。

過去の自分に勝つこと、常にそれしか考えていなかったし、それができるなと思ったから何度もスタートラインに立ったのだと思います。

ただ、ハセツネで10 分縮めるのは大変なことでした。

何か予想外のことが起こったらアウト、それぐらいの綱渡り。

トレランって走るのが速くなれば10 分縮められるかって言ったら、そういうわけじゃなく、総合的に積み重ねて、細かいところまで見直して、やっと削れる10 分間が見つかる。

レース中に考えていたのは「ここまで積み重ねてきて、それがいま崩れたら、すごく悔しいだろうな。

ここで悔しいと思ったら辞められなくなる」ってことです。

毎年、いつも“これで最後だ”と思っていたので、悔しいと思ってしまうと自分の性格だと辞められなくなる、それが嫌でタイムを更新し続けてきた感じですね。

 

スタート前はいつも、どんな痛いめに遭うんだろうってビクビク状態。

捻挫や転倒は何回もあるし、いざスタートしたら、あそこにテーピングするの忘れた、もう1本ペットボトル持ってくるんだった、この靴は失敗だったとか、ネガティブなことばかり考えてました。

だから、金比羅尾根を下ってきて五日市の灯りが見えると、いつも泣いていましたね。

ここまで来れば何があっても帰れる、もう大丈夫っていう安堵感があふれてきて。

 

08年に女子で初めて9時間切りを達成できて、私にとってのハセツネはひと区切りしました。

あそこで9時間を切れていなかったらもう1回ぐらい挑戦していたかもしれませんが、自分の中で“ここまでだな”って思ったんです。

私は走りの研究や体のメンテナンスも一切していなくて、これ以上進むとそういうことも本格的に必要になるし、私のスタイルでやる限界はここまでだって。

自分を成長させてくれた大会を嫌いになりたくなかったし、その決断は今でも間違っていなかったと思います。

 

競技の高速化と新時代の到来

ゴールの数だけドラマがあり この地に刻まれた

全19回大会までのトータル参加者数は2万8934人(出走者)、そのうちフィニッシュラインを越えられた延べ人数は2万164人を数える。

誰にとってもレース距離は同じだが、挑戦したひとりひとり、どれも同じシナリオなどなかった。

挑戦者の数だけ、ゴールの数だけドラマがあり、それはハセツネの地と個々の記憶の中に刻まれ、いつまでも輝き続けるものである。

 

競技の高速化と新時代の到来

ゴールの数だけドラマがあり この地に刻まれた

競技の高速化と新時代の到来

草創期から韓国山岳連盟との交流を深めるなど、外国人たちの挑戦も少なくなく、第11回大会には石川弘樹の働きかけでウェスタンステイツで大記録を打ち立てたスコット・ジュレックなど世界的に有名なトレイルランナーも参戦してきた。

石川や鏑木毅らとも名バトルをしてきた沁在徳は第14回大会(06年)に念願の初優勝を手にし、第18回大会ではフランス人トレイルランナー、ルドビック・ポムレットが優勝。

昨年はオリエンテーリングのスウェーデンナショナルチームメンバーでもあるエリック・オーランドも参戦。

20回目の今年も多くの外国人が挑戦する。

競技の高速化と新時代の到来

01 Prologue 宮地由文 日本山岳耐久レース長谷川恒男CUP実行委員 夜明け前のハセツネ

02 PLAY BACK 1993>2001 第1回〜9回 大会記録 伝説と冒険時代の始まり

03 PLAY BACK 2002>2011 第10回〜19回 大会記録 競技の高速化と新時代の到来

04 Rpilogue 長谷川昌美 日本山岳耐久レース長谷川恒男CUP実行委員 生き抜くことは冒険だ


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